Kato SOTO 

(双涛)

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プロジェクト

世の人すべてにそれぞれが情熱を持って取り組める何かがあると思います。書道の場合、”日常の生活の中で書いたり見たりを楽しむことができる”ということが大事で、そういった環境を用意することが、また私たちの成長やスキルの向上につながることもあります。

  玄 海誌上展審査風景 (下段左図)
 巳年会書展:「クリスマスカロル」 

取り組み   古文字のアート

(甲骨・金文・トンパ)

新たなチャレンジは私たちの原動力です。より良いサービス提供を行うことが喜びであり、楽しくも真剣に取り組んでいます。

プロジェクト      書道文化の普及

世の人すべてにそれぞれが情熱を持って取り組める何かがあると思います。お仕事の場合、それはお客様のためであることが多いですが、自分自身の成長やスキルの向上のためとなることもまたあります。

マイストーリー    profile

自分がこの分野でのエキスパートになれたのは、皆の助けがあったからこそです。それが志を同じにする仲間たちと、情熱とスキルをもって新しいムーブメントを生み出す仕事に携わる理由です。

高村光太郎       "書 についての漫談" 

「書道講座4 かな」二玄社 1966


私の小学校低学年頃の習字の手本は例の細長い折手本で、「いろは」から始まっていた。筆者は菱湖であったように記憶する。菱湖の字はむしろ痩せた筆法であったが、ひどい癖はなかった。私は習字が好きだったので、机の片隅にはめこんである壺に先生が墨汁をついでくれるその匂をいまだに覚えている。半紙一帖とぢの昔ながらの手習草紙がまっ黒になって光るまでなそくった。その草紙は学校の前の学用品の店に持ってゆくと、足し前すこしで新しい半紙一帖ととりかえてくれた。半紙は立派な和紙であったが、途中から「改良半紙」というまっ白な紙が出てきて店ではこの方をしきりとすすめた。妙にすべすべしているのが厭で、私はふるい方の和紙をいつも使った。ついでに書くと、その頃の算術の式は皆石板へ石筆で書いて学んだ。石板を持って歩いたものだが、後に紙石板という厚い紙製のが出来て軽くなった。私はこれでさかんに武者絵を画いたり消したりして遊んだ。甲冑をつけた加藤清正、シホーデン但馬守などが得意だった。小学校高学年頃になると手本が変って、筆者は西川春洞になったようである。これはむしろ太い方の字で、少々癖があったが、やはり小学生には立派に見えた。父の内弟子の中に増田光城というインテリがいて書画がうまかったので、これと相談して級友の字や画を毎月集めて綴り本をつくり回覧した。


 その後美術学校の予備校あたりから多田親愛のカナ文字、つづいて小野鵞堂という風に習ったが、あまり俗っぽいので程なく止した。「明星」時代には友人の水野蝶郎(葉舟)が字がうまいので、それにつりこまれてしきりに字を習ったが、今考えてみるとよい指導者がいなかった。

 美術学校では小杉温邨が「書学」というものを講義していたが、これは主として日本古来の国学畑の書の変遷史であった。世上では六朝書が大いに説かれ出して、私も井上霊山とかいう人の六朝書に関する本を案内にして神田の古本屋で碑碣拓本の複製本を買ったりした。六朝書の主唱者中村不折や碧悟桐の書はさっぱり感心せず、守田寶丹に類する俗字と思っていた。不折はあの千遍一律の字を看板や、書物の背や、幅や、額や、雲盤や、屏風や、到るところに書き散らしたので、鼻についてうんざりした。草津へゆく途中の温泉宿で碧梧桐の例のごろた石をつんだような字の俳句の短冊を幾十枚か、自慢で見せられたことがある。ここに滞在中に書かれたものだそうで主人が珍蔵していた。地方には時々そういうコレクションがあるものだ。

 

日本にも、考えてみると、大昔から実に立派な書家が数多くいた。そしてやはり人のいう通り弘法大師は偉大である。日本風の分子はまだまるでないが、これは大陸本土へ持って行っても見劣りのしない本質的な書の骨格を持っている。むろん羲之の流れだが、ただの模倣でなく、書に空海の生活がある。私は学生の頃、買えない英語の原書を大学ノートにびっしりペンで描き写したものだったが、それと同じような空海在唐中のノートに過ぎないと思える写経の細字まで立派である。いくらぞんざいに書いても字にうま味がある。総じて空海の書には一通りならぬ奥行きがあり、恐ろしく強いエネルギーがある。これに比べると、伝教大師の書は同じように立派だが、どこかにしんの弱いところがあり、ひどくお人よしのように見える。 

 小野道風も人のいう通りすばらしい。和風の先祖だが、筆のやわらかい割に骨法はつよく、決してめめしくはない。ゆったりとして迫らず滋味があり、品位が高い。道風といわれるカナ文字を見ると、これがまた心にくいほどうまくて、シックだ。よほど運動神経の統御力があり、比例均衡の空間感覚の鋭かった人と見え、大陸にもないこんな新しい書を日本につくり出した。カナ書きの名人は平安朝以来たくさんいるが、ともかくカナ書きの美は日本独特のもので、こんなおもしろい自由な文字の美は、世界でペルシャ(イラン)文字の装飾美の外に肩をならべるものもない。 

 古来名筆として知られている人たちの書はみなそれぞれにいいところを持っているし、まあた名も残らず、書いたものも残っていないような、社会の隅々にいた人達ですばらしい書を書いたものも数多くいたに相違ない。書などというものは、真実の人間そのもののあらわれなのだから、ことさらに妍を競うべきものでもなく、目立ったお化粧をすべきものでもない。その時のありのままでいいのである。その時の当人の器量だけの書は、巧拙にかかわらず、必ず書ける。その代り、いくら骨折っても自分以上の書は書けない。カナクギ流でも立派な書があるし、達筆でも卑しい書がある。卑しい根性の出ている書がいちばんいやだ。 

 徳川時代までの坊さんや儒者などには随分いい書をかく人がいたが、明治になってからはどうも少ない。評判の人は色々いるが、真に感心できるものは多くない。坊さんの書がぐっとくだらなくなった。むやみと書き散らしたらしい南天棒などというのがいるが、まったくの俗字だ。学者にもいない。政治家にもいない。軍人にもいない。書家にもいない。大体、明治という時代が、立身出世主義俗物時代だったので、その臭みが誰のものにも染みついている。梧竹のような書家はなるほどいいけれども、妙に強引なところがあって素直でない。その素直でないところからくさみがただよう。副島種臣は抜群の書を書き、俗っけのない字だが、これも時々羽目をはずして癖を出し過ぎる。癖が癖と感じられるようになってはもういけない。西郷隆盛も山岡鉄舟も乃木大将も山県有朋もよいとはいえない。例の「此の一戦に在り」は殆ど字でない。評判の高かった伊藤博文は小市民的趣味にふやけていて、却って西園寺公の貴族趣味の方がいいし、犬養木堂は筆墨について説くところの方がよくて、実際の書は知友であったらしい康有為の方がいいようだ。 

 今、書道は一部の新人によって変革されつつある。書の根源である純粋造形への切込みが行われて居るのであり、画や彫刻のアブストラクトの追求と或る地域で出会う形となっているのが面白い。これは今日の世界的傾向に同調するものだが、まだ一段落というところまでいっていない過程に強い興味もあり、また不安もあるという感がある。 

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古文字あれこれ (その1)

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書あれこれ (その1) 

マイストーリー   profile

上:横田基地での書道クラス

どんな人にもそれぞれのストーリーがあります。私がどのような人間で、どのようにしてプロジェクトを実現してきたかを、ぜひご覧ください。